スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。
いつか、どこかで、誰かが、自分の書いた文章を読んで、何かを受け取ってくれるのかもしれない。宛先の具体的な像が見えない文章を書いているとき、ときどき、私はそんな風に思う。
 絵を描くことでもなく、楽器を奏でることでもなく、小説のようなフィクションを書くことでもなく、私は小説を論じることで、何かを人に伝えたいと思ってきた。それが、自分にとって、最適な領域だったからだし、今もそう思っている。自分が、誰かの文章から、何かを受け取り、生きてきたように、自分も誰かに何かを引き渡すことができたらいい、と。
 だから、研究に真摯に向き合いたいと思うし、ひどい思いをしたことを含めて、自分の人生における経験値が、人に伝えるための表現の幅になるように、自分の生を恐れないでいようと思う。
 新しい知見を得ることは、私に物事の捉え方に変化をもたらし、それが、研究ーー人に何かを伝えることに深みの繋がればいい、そんな風に思っている。
2015/10/12(月) 12:26 UNARRANGEMENT PERMALINK COM(0)
小説をアニメ化したシリーズを観ていて気づいたことがある。活字で読んでいたら内容を掴むのに結構な時間がかかるのだが、アニメだと「合理的」に受容できるのだと。
 ストーリーの概要を掴むという点において、文学アニメはよい効用を発揮するのだと。
 たとえば樋口一葉「たけくらべ」などは、文体からして、多くの学生たちには読みにくく、読了するまで至らないかもしれない。しかし、30分のアニメで、ある程度内容や雰囲気を知ることができる。とすれば、小説を読むという、多くの時間を要する行為とは、贅沢な時間を過ごすという行為なのだろう。
2015/10/10(土) 23:05 UNARRANGEMENT PERMALINK COM(0)
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。